弔辞(友人代表・土井たか子元衆議院議長)
弔 辞
友人代表
衆議院議員 土井たか子
今から2ヵ月ほど前、上田卓三さんと久しぶりに会った私は、別れるとき、上田さんのお疲れの様子が気にかかりながら、ぜひ、5月のさわやかな間に会食をしましょうと約束をしていました。その5月に届いたお報せが、約束の会食の日取りでなくて、思いもかけない悲しい上田卓三さんの訃報とは、一体誰が予想できたでしょうか。とても信じられません。私たちには黙って、何一つ弱音を云わず、敢然と病魔と闘っておられたことを思いますと、最後まで上田さんのご生涯が闘いの連続であったことと重なり、胸がいっぱいになります。いつも行動をともにされてきた孝子夫人や、同志の方々のご心中をお察しすると、お慰めする言葉を失うのです。まだまだこれからの時に残念で残念でなりません。つつしんで上田卓三さんへ心からの哀悼の思いを捧げます。
私は常日頃、上田卓三さんを「卓三さん」とお呼びしてきました。今日も「卓三さん」と呼ばせて下さい。
『人間のたたかいの砦(とりで)から一参院選、70万票の敗北を背負って-』という本を私は手許に置いております。これは、1974年7月7日の参議院選挙、上田卓三さんがはじめて選挙を闘われた時の記録です。私がはじめて卓三さんにお会いしたのは、と云うより、お見かけしたのは、その参院選の真っ最中、大阪梅田の駅前で作家の小田実さんと街頭演説をされている姿でした。街頭を埋めつくす人びと。卓三さんは、凛々しく“若武者”のようでした。その演説は、びんびんと響き渡って、雄叫びのようでした。
「この世から差別をなくそう。そのためには僕と一緒に闘って下さい。平等な社会を一緒に創っていこうじゃありませんか」と血の出るような叫びに呼応して、部落解放同盟のシンボルである荊冠旗(けいかんき)がはためき、駅前のできたばかりの歩道橋にまで人が溢れ、どよめきと共に揺れるのを見て、今にも押し出された人が降ってくるのではないかとハラハラしながら昂奮していました。「すごいなぁー、こういう人が国会に出てきたら本当に世の中変わるなぁー」と感嘆し、わくわくしたのを昨日のことのようになつかしく想い出します。
この初選挙は70万票近い票をとっての惜敗、全国で最高得票の次点であっただけに本当に口惜しく残念で仕方ありませんでした。でも、めげることなく頑張って1976年の総選挙に38才の若さで大阪四区で出馬、初当選。以降6期当選はさすが卓三さんならではの快挙だったのです。
忘れもしない1988年、思いがけない出来事がありました。不正義に対しては常に怒りをはっきりさせていた貴方が政界を震撼させたリクルート事件に身近な人が、関わりがあったと聞いた途端に議員辞職を決断されるというその潔さ。当時、社会党の委員長をしていた私の立場を慮(おもんばか)っての決断と思うと私にとっても本当につらい決断でもありました。それだけに、その1年3ヵ月後の1990年衆議院総選挙で堂々の2位当選。このときのカムバック当選ほど嬉しいことはありませんでした。
卓三さん、貴方の国会議員としての活躍はめざましく、国会活動、部落解放同盟でのご活躍、中企連を設立して、中小企業の方々の力になってこられたこと、卓越した手腕を人権・平和のための国際交流で発揮されたこと、などなど数えあげればきりのない輝かしい業績が活躍の足跡を物語っております。わけてもアジアをはじめ中東アフリカ、アメリカ、ロシア、ヨーロッパ、型破りのずば抜けた国際交流には目をみはるものがありました。モンゴルから旭鷲山さんや旭天鵬さんたちを連れてきて日本相撲界に新風を吹き込んだことも、楽しい業績のひとつですね。
82年6月、ニューヨーク国連で核兵器廃絶のための世界会議が開かれ、それに呼応して全世界から集まった100万人を超す市民集会に一緒に参加しましたね。あのときは、ニューヨーク中どこの街角を曲がっても人、ひと、ひとの波、世界の経済を牛耳るニューヨークのウォール街を行進していて、卓三さんは「けったくそ悪い。この街を空の上から見下してみたい」と高いところが好きな卓三さんらしく「ヘリコプターに乗ってみるから一緒に乗らへんか」と云われ、飛行機が好きでない私は、当惑して断ってしまいましたが、あとで空に上がった卓三さんの感想を聞くと「たいしたことあらへん」の一言だったことを覚えております。
そして南アフリカ共和国にもご一緒させていただきました。反アパルトヘイトの闘士マンデラさんが釈放され反アパルトヘイトで闘った世界中の同志たちが集まり、新しい南アフリカ共和国建設の出発点ともなる世界会議に招かれた卓三さんが一緒に行こうと誘って下さったのです。日本からの代表ということで私に演説をしてほしいと、ご自分は聞き役に回ってしまわれました。卓三さん、貴方は行く先々で歓迎されていましたね。私たちが反アパルトヘイトの活動をはじめる以前から「反差別」ということで隔離されていた黒人居住地区に学校や病院を建てる援助をしたり、働き口のない女性たちのために技術を教える施設を作る援助をしたりの活動を、解放同盟の方々と始めておられました。そうした人々から熱い感謝の挨拶を受けると、ニコッとして下を向いてしまわれる卓三さんの姿が印象的で、今も瞼(まぶた)に焼きついています。人の喜ぶ姿を見ればいつも嬉しそうに眼を細めてニコッと笑われた卓三さんのチャーミングな笑顔が懐かしく想い出されます。
卓三さんが病で倒れられたと伺った時、すぐに病院へお見舞いにと申し出ましたが、孝子夫人から「笑頗だけを覚えていて下さい」と伝言があって心配がいっそう募っていた矢先でした。こんなに早く旅立ってしまわれるとは思いもかけませんでした。
卓三さん、私よりずっと若い卓三さんが先に逝ってしまわれるなんて、順序が違うじゃありませんか。戦後60年をともに生きてきて、この息苦しい時代がいよいよこれからが正念場というときに、卓三さんの信念とそのファイトが最もこれから必要だったのです。その経験と先を見透かす眼が元気でいてほしかった。卓三さん、闘いの一生、実に見事な生涯でした。
「戦争と差別と貧乏が人間の人間らしい生活を奪い、生きる権利すら奪ってしまう。この社会を平和で差別のない豊かな社会につくりかえる」これが卓三さんの信念でした。私たちは卓三さんの笑顛と思い出を胸に刻んで忘れません。よく頑張って下さいました。本当にありがとうございました。心から上田卓三さんのご冥福をお祈りし、孝子夫人をはじめご遺族へお悔やみを申し上げてお別れと致します。上田卓三さん さようなら。
2005年5月31日