上田 卓三 (うえだ たくみ)

1938年6月24日 大阪市東淀川区生まれ。1958年 大阪市立扇町第二商業高校を卒業し、1973年3月 部落解放同盟大阪府連委員長に就任。1973年8月 大阪府中小企業連合会を設立し会長に就任。1976年12月 衆議院大阪4区に出馬し初当選、以降1993年6月まで衆議院議員を6期17年務める。1996年12月 中企連をティグレ(スペイン語で虎)に名称変更。ティグレグループ代表に就任し、ティグレ会長、株式会社ティグレ代表取締役、ティグレフォーラム会長など多数の役職を務める。2005年5月、66歳で死去。

上田卓三の歩み 1(1938年-1958年)

1938年6月24日(寅年)大阪市東淀川区の新大阪駅近くの被差別部落(日之出地区)でタバコ、日用品を扱う上田商店の次男として生まれる。兄、弟、妹2人の5人兄弟。

1945年の大阪大空襲で隣の家に爆弾が落ち、店は全壊する。危機一髪のところで命は助かるが、着のみ着のまま一家は焼け出される。
この時の生死をさまよう体験が、戦争の恐ろしさを身に染み込ませることになる。

日用雑貨店の息子だけあって小さい頃から店の手伝いをしており、商売に馴染むきかっけとなる。小学生の頃から靴みがきなどをして家計を助ける。

1950年の小学校六年(大阪市立西淡路小学校)の時、近畿地方を襲ったジェーン台風によって再建した家が再び全壊。また同年、働き者の父親が結核により42歳で死亡。母親も病気がちになる。 少年とその兄は「単語カード」やたばこ卸しなど様々な商売をして必死で家計を支える。その頃珠算3級をとり、子供ながら商売の面白さに興味を持つようになる。小遣いは自分で稼ぎ、あまり不自由はしなかった。

将来はでっかい商売をやって、母や妹たちを楽にしてやろうと夢がふくらむ。まじめに勉強するようになったのはこの頃からである。地元の中学校(大阪市立淡路中学校)を卒業後、昼間働きながら大阪市立扇町第二商業高校(定時制)に通う。楽ではなかったが、学ぶことは喜びであり生きがいだった。 その頃、「日之出青年会」という地域の青年活動を通じて部落解放運動と出会う。1958年に扇町第二商業高校を卒業。

上田卓三の歩み 2(1958年-1973年)

1958年、高校卒業後、20歳で部落解放同盟大阪府連合会(以下大阪府連)に常任として専従オルグに従事する。 この間、大阪府下の被差別部落を回り、部落解放同盟の組織化に奮闘する。各地で次々に支部を結成させ、大阪府連の大衆的発展の基盤をつくる。

1962年、24歳の時、小学校教師の武林孝子と結婚。大阪府松原市に部落解放同盟の支部結成を機会に定住する。

1964年、26歳の時、大阪府連の組織部長に就任。 当時大阪府連をはじめ全国の部落解放同盟は日本共産党が機関を支配しており、その後の路線対立から日本共産党の部落解放同盟攻撃に対し先頭に立って闘う。

1967年、28歳で部落解放同盟中央本部中央執行委員、1968年、29歳で大阪府連書記長、1973年、34歳の若さで大阪府連執行委員長に就任。以後21年間委員長を務め、大阪はもとより全国の部落解放運動をリードする。

1967年、29歳で全国解放教育研究会(現・(財)解放教育研究所)を設立し、会長(理事長)に就任。1970年より部落問題の正しい認識と反差別の教育をめざして、小・中学校教育の副読本として「にんげん」(明治図書)を毎年発行し、高い評価を得る。

1967年、部落内企業者の経営の安定と生活の向上をはかるために「大阪府同和地区企業連合会」(現・部落解放大阪府企業連合会)が設立され、常任理事に就任。以来、部落の産業振興及び事業者の育成や雇用の創出に奮闘する。

1969年の「同和貿易振興会」、「(財)大阪府同和金融公社」設立を皮切りに、1970年には「(財)大阪府同和建設協会」、「大阪府同和食肉事業協同組合」、「大阪市同和衛生事業組合」を相次いで結成、翌1971年には「(財)大阪同和産業振興会・新大阪タクシー」が営業開始する。また1972年「大阪府人造真珠事業協同組合」、1973年「部落解放皮革関連事業組合」(皮革製品フェアを毎年開催)などが結成、さらに1975年には部落解放高槻富田園芸協同組合(園芸フェアを毎年開催)結成など、部落解放運動のリーダーとして同盟内の事業者の組織化に尽力する。

1973年、患者中心の新しい地域総合病院をめざして「阪南中央病院」を大阪府松原市に開設。劣悪な住環境によって伝染病が発生しても、貧困のために充分な治療を受けられない状況にあった被差別部落の医療の充実を図る。また、同病院は入院患者や外来患者、訪問治療患者数も多く、被差別部落だけではなく、周辺の地域医療に大きく貢献している。

上田卓三の歩み 3(1973年-1993年)

1973年、34歳の時、自らの体験から「戦争と差別と貧乏が人間の人間らしい生活を奪い、生きる権利すら奪ってしまうこの社会を、平和で、差別のない豊かな社会につくりかえる」を信念に、参議院選挙出馬を決意。部落解放運動にとどまらず社会の変革のため、政治をめざし立ち上がる。

1974年、36歳で参議院選挙大阪地方区に初めて出馬、約70万票を得るが惜しくも落選する。(全国最高得票の次点者)

1973年、部落解放運動の経験を活し、中小企業の事業主やそこで働く労働者に政治の光をあてるため「大阪府中小企業連合会」(旧・中企連、現・ティグレ)を設立し、会長に就任。この年から75年にかけて堺、東大阪、門真、八尾、富田林など大阪一円に事務所を開設。

1975年、住民の行政相談の窓口として「いのちとくらしを守る会」(いのくら)を結成し、会長に就任。住宅、教育、年金、健康保険などの課題に取組み、地域住民の福祉・生活の向上に奮闘する。

1976年、38歳で衆議院選挙に大阪四区(東大阪市、八尾市、松原市など)より出馬、初当選を飾る。「河内の若虎」誕生。以後6期連続当選。

衆議院議員在職16年間に、衆議院内閣委員会理事及び大蔵委員会理事、社会党大蔵部会長、衆議院沖縄・北方対策特別委員長を歴任。国会では「人権・中小企業・国際交流の上田卓三」として知られ、院内はもとより院外でも華々しく活躍する。

1979年、社会党大阪府本部副委員長に就任。1980年には社会党中央本部国際部長に就任し、平和と人権を目指して「地球サイズ」の行動力を発揮する。1980年から81年にかけては初の本格的な国際視察を行い、リビア、レバノンなど激動の中東やインド、ベトナムなどアジア諸国の計15ヶ所を次々と歴訪。その間PLOアラファト議長と会談するなど、訪れた各国で親善交流を図る。

1980年、大阪-レニングラード姉妹都市1周年を記念した「日ソ親善オリンピックの旅」を敢行する。日本政府がボイコットを決めたモスクワオリンピックに、飛行ルートの無い大阪伊丹空港に2機のソ連アエロフロ-ト機をチャーターし、300名の訪ソ団を組んで参加、日ソ間の緊張緩和に貢献する。翌81年には日ソ親善洋上大学「ナホトカ青年の船」を出港させ、以後10年間に渡って日ソ青年交流を手がける。

1981年、日ソの経済交流と関西経済の復権をめざし、「日ソ経済交流関西シンポジウム」を主催し、成功を収める。

1982年、自ら「国際親善交流センター(JIC)」を設立し、理事長に就任。以降、JICをソ連、モンゴル、中国をはじめ各国との国際交流活動を担う有力な団体に成長させる。

1983年「全国に捲き起こそう!中企連運動」を合言葉に「中企連結成10周年記念大会」(大阪城ホール)を開催、全国から1万人の参加を得て成功を収める。1980年の東京本部設立に続き、この記念大会に前後して札幌、鹿児島、会津若松、名古屋、仙台、広島、金沢、長崎と、北は北海道から南は九州まで全国の主要都市に中企連事務所を開設。

1984年には、行動する「ニュー社会党」をめざして全国で「出前演説会」に取り組み、事務局長に就任。翌1985年には全国60ヶ所で演説会を開き、国会議員による「のぼり押し立て、全国へ」の院>外活動スタイルは、大いに注目を浴びる。

1986年、米国の黒人運動指導者であるジェシー・ジャクソン牧師(元民主党副大統領候補)を初めて日本に招へい。東京と大阪で開かれた世界人権宣言記念集会でのジャクソン牧師の特別講演など、「反差別国際連帯」の輪が確実に広がる。

1987年参議院大阪地方区補欠選挙に秘書であった谷畑孝氏が出馬。1989年の参議院選挙大阪地方区で谷畑孝氏は90万票を集め、見事トップ当選を飾る。1994年村山連立政権の成立で通産政務次官に就任。その後1996年、衆議院選挙の大阪第14選挙区(八尾市他)に自由民主党公認で出馬し、当選。

1988年、リクルート事件での元秘書関与の疑いで、世間を騒がせたことに対する道義的、政治的責任を取り、議員辞職を決断。1年3ケ月後の1990年衆議院選挙では堂々の2位当選を果たし、6期目の新しい出発を飾る。社会党・大蔵部会長時代の手腕に期待され、衆議院大蔵委員会委員に復帰。

1990年、4人の顧問国会議員とともに台湾・台北市を訪問。当時野党の民主進歩党本部や立法院(議会)、台湾外交部長(外務大臣)と会談し、高成長を続け活気溢れる台湾経済を視察する。現地のマスコミでは、中国との関係が深い日本最大の野党・社会党国会議員の大挙訪問のニュースとして、大きく報道ightされる。

1991年、中企連・中国経済特区視察団の団長として海南省海口、広東省珠海、深圳の3都市を訪問。「改革・開放経済」に取組む経済特区の現状を視察する。また同年の秋には、顧問国会議員を含めた大型視察団を率いて再び訪問し、深圳市に中企連事務所を開設。以降、上海市、淅江省、福建省など各地域の経済視察団の受け入れなど中国との交流が進められていくことになる。

1991年日本社会党を代表して32年ぶりに南アフリカの地で開かれたANC(アフリカ民族会議)の歴史的な大会に出席し、タンボ国民議長と会談。また93年にも国会の「反アパルトヘイト議員連盟」の副会長として、土井たか子社会党元委員長(当時)とともに再度訪問。ANC主催の「国際連帯会議」に参加し、制憲議会選挙を控えた南アフリカの経済や教育の現状を視察する。

1992年、日本とモンゴルの友好親善めざして、モンゴル相撲青年力士の日本相撲界入門の橋渡しをする。これは関西後援会長を務め、かねて懇意にしていた大島親方(元大関旭国)に働きかけ実現したもの。旭鷲山や旭天鵬などモンゴル出身力士の活躍は相撲界に新風を巻き起こし、日本だけでなくモンゴルでも大きな関心を呼んでいる。

1993年には、日本ロシア協会の副会長に就任し、新生ロシアからの経済視察団の受入れに協力する。また、1994年には日本とロシアの経済交流拡大をめざして、国際親善交流センター(JIC)による「日ロ経済シンポジウム」を大阪・東京で開催する。

1993年55歳、7期目を目指した衆議院選挙で惜敗。議員引退を決断。

上田卓三の歩み 4(1993年-2005年)

1993年、新しい活動の出発。「新しい政治の渦の中では、議員バッチをつけていないほうが、より大きな活動ができることもある。国会議員には出ないが、政治には一生関わっていきたい。このトラ(寅年生まれ)を国会というオリに閉じ込めず、野に放って活動させてほしい。部落解放運動をはじめ人権擁護の闘い、中小企業運動、国際交流活動にこれまで以上に全力を尽くす」と決意表明。

1993年、「日本を変える・時代を担う!」をスローガンに「中企連20周年記念集会」(大阪城ホール)を開催、全国から1万2千人の参加を得て成功を収める。この記念集会に前後して、和歌山・白浜、北九州、新潟、神戸、徳島に事務所を開設。

1994年56歳で部落解放同盟中央本部書記長、1996年58歳で中央本部執行委員長を各1期務める。同和対策事業法の5年延長、部落解放基本法につなげる「人権擁護施策推進法」の制定、「人権擁護推進審議会」の設置に貢献する。1998年部落解放同盟中央本部顧問に就任。

1996年、あらゆる形態の人種差別・人種主義に反対し、マイノリティと先住民族の権利の保護をめざす「反差別国際運動」(IMADR)の名誉理事長に就任。1988年の設立には監事として加わり、1993年の日本初の国連人権NGO登録取得を推進した。

1996年、「中企連」の名称を、時代の変化にあわせて「ティグレ」に変更する。 1997年、新生「ティグレ」に合わせて再び全国に事務所展開を図る。同年には大宮、岡山、四日市、熊本、長野に事務所開設、翌1998年には松山、千葉、京都、福岡に事務所を開設する。

1998年、日本とロシアの交流団体等で組織する「日ロ友好フォーラム21」の発足に、国際親善交流センター(JIC)会長として加わり、同フォーラムの運営委員に就任。

1999年6月、ティグレ理事メンバーを率いて米国のグレーターハーレム商工会議所(ニューヨーク)、H&Rブロック社(カンザスシティ)を訪問。これ以降、米国のマイノリティ団体や税務会計サービス会社との国際交流活動に積極的に取組む。

1999年9月、米国ワシントンD.C.で開かれた「全米黒人議員総会」に出席。総会への日本人の参加は極めて異例であり、旧知のジェシー・ジャクソン牧師(元民主党副大統領候補)とも再会を果たす。

1999年11月、グレーターハーレム商工会議所理事会メンバー(ニューヨーク市)を初めて日本に招待。大阪とニューヨークの文化・教育交流に向けて大阪府や大阪市との橋渡しに尽力する。

2000年7月、日米のマイノリティ交流をはじめとする人権擁護活動とハーレムの地域振興への貢献を称えられ、ジュリアーニ・ニューヨーク市長より「ハーレム文化功労特別賞」を受賞。外国人としては初めてのことである。

2000年6月、杉原千畝生誕100年記念事業委員会(委員長・明石康元国連事務次長)の結成をリードし、委員長代理として「杉原千畝生誕100年記念事業」(写真展、記念式典、コンサート)を成功に導く。同年12月の記念式典(大阪国際会議場)には杉原ビザ受給者のユダヤ系アメリカ人など海外ゲストや大使館関係者も多数参加し、国内外で大きな反響を呼び起こす。

2000年6月、杉原記念事業委員会の海外要請行動の中で、多くのユダヤ系団体との交流を図る。特に反ユダヤ主義や人種主義と闘うNGO(非政府組織)として国際的評価も高い「ADL」(反差別連盟)とは「杉原千畝作文コンテスト」優勝者の訪日協力など着実な交流を続けている。

2000年10月、中小企業の政治団体として活動する「全国商工政治連盟」を刷新し、国会議員やマスコミ関係者、企業経営者等を集めて政策勉強会「上田卓三政経懇談会」を始める。

2002年3月1日、各界に呼びかけ、納税者の立場から税制改革を求める「税制構造改革国民フォーラム」を結成。「いびつになった日本の税制を、もっと国民にわかりやすく、『われわれが納税者なのだ』という自覚のわく税制にしていくことが、民主主義社会の原点」と訴えた。同年6月には東京、大阪で「シャウプ博士生誕100周年記念ー税制改革国際シンポジウム」を開催した。

2004年6月、政治家・上田卓三として「新憲法制定の提言」を発表。「日本連邦・道州制」の提案や、「大統領制」の導入、象徴天皇制の徹底などを提言した。2005年2月には『新憲法制定のススメ』として出版した。